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東久留米市の遺跡について

2024.06.02

マイタウン西武ブログをご覧の皆様
営業の柳沼 剛(やぎぬま たけし)です。
 
私のブログで地域の歴史や紹介を書いていますが、今回は東久留米市について書きたいと思います。

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(東久留米市役所)

東久留米市は都心から約25キロ離れた武蔵野台地の中央部にあります。
厚い関東ローム層に覆われていていますが、湧水が豊富に湧き出している土地です。
大地中に勾配が急に穏やかになる場所があり、急勾配を流れてきた地中を流れる地下水の流れが、勾配の変化によって堰き止められる形となるため、湧水群が成立することになりました。
そのため東久留米は先史時代において人々が住むようになったのは湧水群の周辺でした。
東久留米市の歴史を語る上で遺跡の事を書きたいと思います。

東久留米市の遺跡の特徴として、旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が多く、弥生時代以降の遺跡が少ないという特徴があります。
これは湧水群という水に恵まれた環境に加えて、武蔵野台地上に落葉広葉樹林、常緑広葉樹林が広がり、ドングリ、トチ、クルミ、それらを食べているシカやイノシシなどの生物資源に恵まれていました。

縄文時代以前の東久留米は、採取狩猟生活に適した環境であったことによるとい言われています。東久留米市内で確認されている中で最古の旧石器時代の遺跡は、約3万年前の下里本邑遺跡と神明山遺跡である、約1万8000年前になると10以上の遺跡が確認されており、また大規模な集落が営まれていたことが確認されています。
東久留米市近隣でも新座市や朝霞市にも旧石器時代の遺跡は分布しているものの、東久留米市の遺跡数が最も多い。これは黒目川の最上流部にあたる東久留米は湧水量が豊富で、居住に適していたためと考えられています。

しかし旧石器時代の最末期は遺跡が激減していることが確認されています。
縄文時代草創期、前時代に続いて遺跡数が少ない状態が続いていたが、早期以降、前期、中期と遺跡数が増加していきます。
特に関東地方から中部地方にかけて遺跡数が激増した縄文時代中期、遺跡数は激増し、遺跡の規模も大型化していきます。
しかし気候の寒冷化による生活環境の悪化と、中期の急激な人口増に伴う人口圧の結果、後期から晩期にかけて著しい人口減少が発生して遺跡数も激減して、特に縄文時代晩期の遺物は東久留米市内ではほとんど確認されていません。

弥生時代に入っても、東久留米市内では遺跡の分布が極めて薄く、しかも規模も小さい。これは湧水群が水場である武蔵野台地奥部の東久留米は、水田に適した低湿地が少なかったためであると考えられています。

そして古墳時代の遺跡はこれまで東久留米市内では確認されていません。
下里本邑遺跡では奈良時代の可能性がある堅穴建物跡が検出されていて、向山遺跡からは平安時代のものと考えられる竪穴建物跡が確認されています。
 
ちょっと難しくなってしまいましたが、東久留米市は近隣の市に比べ遺跡が多く、これらを調べると東久留米市を違った見え方になるかもしれません。
みなさんもご自身の住んでいる場所の歴史を調べてみてはいかがでしょうかsign02
ではまた。

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